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美術サロン

  

私の絵画論

人間の精神史としての美術   - 前編 -

我々はどこから来たか
  我々とはなにか
    我々はどこへ行くのか     

ゴーギャン

村上啓一

子供のころ美術全集をめくりいくつかの絵が心に焼きつくように残った。
アルタミラの洞窟に人間の始祖が生き生きと描いた野牛の姿、ローマの前にイタリアに住んでいたエトルリア人が風俗を刻みこんだ赤銅色の壷(エトルリアの壷)、黒田清輝の湖畔の窓辺で読書する女、高橋由一の写実に徹した縄にぶら下げられた鮭、青木繁の漁師がかつぐ大漁を祝う海の幸、岸田劉生の麗子像。
 
東京で生活をはじめて上野の美術館やブリジストン美術館で実物を見た。ああこれかと感動した。エトルリアの壷は1991年にブリジストン美術館で開かれたエトルリア展で窓越しではあるが実物をみた感激が忘れられない。
アルタミラの洞窟はまだ見る機会がない。長女が銀座の画廊でアルバイトして安くもらってきたのが劉生の孫が描いたサクラの絵であった。
 
中学生のころ古代ギリシャのパルテノンを模した倉敷大原美術館で西洋絵画の実物にはじめて触れた。セガンティーヌの牧場の女、エルグレコのマリアの大作、ピカソの牛の頭などが目に浮かぶ。学生時代は奈良や京都の仏像を見学に訪れた。法隆寺の釈迦三尊、弥勒菩薩、東大寺三月堂の日光、月光菩薩が記憶に残る。京都広隆寺の弥勒菩薩はこれを造った日本人の気高さを思った。
 
仕事から解放されて諸外国の都市と美術館を訪れた。バーゼル、ルーブル、オルセー、アムステルダム、ゴッホ館、大英博物館、ボストン、NYメトロポリタン、米ナショナルギャラリー、バチカン、ベルリン博物館、ドレスデン美術館、フィレンツェのアカデミアとウフィッツィ美術館。西欧の都市は街が美術館だ。あるとき'絵とはなんだろう、美術とはなんだろう'と思った。ふと心に浮かんだのが'絵(美術)は人間の精神史である'という想いであった。

「1」美術はまじない、祈り、宗教である。
アルタミラの洞窟に描かれた野牛は洞窟住まいの人間が明日の狩りをするための祈りである。先史時代のいずれの民族も狩りや採集や農事の豊穣を祈りまじないの絵や土偶のようなものを残した。すすんで仏画や仏像、教会の聖画や聖像は宗教心の表現となった。権威化した宗教は人間精神への桎梏ともなった。ミレーの'晩鐘'は祈りであり、シャガールの空想画、ゴーギャンのタヒチ島における原始画、ピカソの'ゲルニカ'、ルソーの'戦争'や岡本太郎の'明日の神話'なども新しい祈りの絵である。

「2」ルネッサンスは古代ギリシャ美術と近代科学のめぐりあいである。
古代ギリシャの美術は'ミロのヴィナス'や'勝利の女神'の像に見るように大理石による白く輝く人間讃歌である。ギリシャ神話の神々はまことに人間くさい。この生身の人間性はキリスト教に否定され1000年の暗黒時代をおくった。コペルニクスやガリレオの地動説によって聖書の迷妄から覚め自然と人間をありのままに見る近代科学が萌芽した。北イタリアのバスの車窓から見た風景はダ・ヴィンチの'受胎告知'の背景にそっくりであった。ダ・ヴィンチは遠近法と写実的方法で静謐な'モナ・リザ'や'最後の晩餐'を描いた。ダ・ヴィンチは科学者なのだ。
  
ボッティチェリーの'春'やラファエロの'アテネの学院'は古代ギリシャの神話と哲学が画題である。宗教の片鱗もない。ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の'最後の審判'や天井画、'ダビデ'の像は力強い構想力と肉体美で人間を讃美し教会を圧倒している。ティツィアーノが'ウルビーノのヴィナス'で500年も前に描いたヌードに驚嘆させられる。岡本太郎の云ったように芸術は爆発なのだ。

「3」近代オランダは市民社会の美術の源流である。
近世のオランダは宗教改革によってカソリック教会のくびきから開放された。貿易や産業の発達により富裕な市民社会が出現した。新教は偶像崇拝を禁じたのでブリューゲルの'雪の狩人'やレンブラントの'夜警'、フェルメールの作品から宗教が消えて画題は市民の生活になった。日本の江戸時代も商工業がにぎわい都市が発達し市民社会が成立した。狩野派や光琳派など豪華な日本画が花開いた。幕府は世界で唯一オランダと交易し南蛮風俗画のほかに渡来した近代絵画がないのはその大きさや運搬のリスクのためであろうか。日本で今フェルメールに人気があるのは美術を愛好する豊かな市民社会に我々が生活している証左かもしれない。

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