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リレー随筆 第10回  

模写の勧め - 山下悦三 -

ルーブル美術館の多くの作品を見て廻っていると、名画と言われる前に、それを模写する画学生に会うことがよくある。原寸大の模写は禁じられているので一廻り小さめのキャンバスに向かって、作品には鋭く熱い視線を注ぎ、慎重な筆を走らせている姿を見て、私もやってみよかと思ったりもする。

併し模写に時間を割く位なら自分の絵に没頭した方が良いと思ったり、他人様の絵をなぞって見て果たしてプラスになるか、などと思い迷ううちに模写のためのイーゼルを立てることはなかった。

ところが、類い稀な創造性豊かな主、ピカソの作品は多くの評論家などから指摘されているように、ピカソは過去の名だたる作品を尽く模写し、それを土台として独自の発想を発展させて次々とピカソならではの作品を完成させていると言われている。そのことは美術評論家の権威、高階秀爾氏の名著「ピカソ剽窃の論理」で精緻に分析、解明されてピカソ研究に道を拓いている。この著作は私にとって驚きだったが、その著作について文学者大岡信氏はこう語っている。

「剽窃とは誠に人聞き悪い言葉だが、それがピカソに適用される時、ある種の輝きさえ帯びる。ピカソの作品は紛れもなく古典作品の剽窃によって成り立っている。このことは高階氏の出現で事実として広く承認された。ピカソは単に模倣することなく積極的に剽窃して作品を恰好の踏み台として、しゃぶりつくし結果的には独自のピカソ世界を造り上げてしまった」と言われた。私は早速ピカソに倣って他人様の絵を真似してもそれを土台に自分の絵を発展させればとなんとかなると思い、今年こそはと模写の筆を執ろうと思った。然し模写して其処から何を得ようとするのか、又自らの筆の悩みを解くのには、いずれの作品にその鍵を求めるかなどと思ううちに、億劫になって、模写への準備さえも忘れてしまった。

扇/ガラス絵

しかし、かって、洋画の桜田精一画伯より手解きを頂いた私のガラス絵は参考にすべき作品も著作もないので、思うようにならず、もう止めようかと思った時期がある。小さなガラス絵に画く線は複雑なことは出来ない。単純な線で人物の動きも、生きた眼差しを表現せねばならない。それが悩みだった。

そんな折、偶然にも手許にあった浮世絵画集を見て気がついた。浮世絵を成り立たせている線には一つの無駄もなく簡明である。計算し尽された線は人物の表情を浮き立たせ、僅かな線の違いで綿入れと浴衣を分別する。勿論それは着色の妙により強調される。これらのことは思いもよらぬ浮世絵の模写を試みて判ったことで見てただけでは分からないことだった。芸術性の高い浮世絵の技法などを会得することは至難のことではあったが、私のガラス絵の停滞の壁を破ってくれたことは、間違いのない事実であった。そんな模写の功を親しい画友に話したところ、彼は「俺は毎年模写で苦労しているよ、私の師は絵画同好会の一年間の試験制作と言って、自分の選んだ絵を模写させる。それだけなら良いがその模写絵の中に人物を描き入れろと言う。だから大変なんだ。」と聞いて驚いた。その模写絵の揃ったグループ展に招かれたが、内外名画に創作人物を加えた模写絵が競った会場は一見奇妙に見えたが、何とか名画に創作人物を違和感なく定着させようという努力の跡を判って興味深いものがあった。

彼はユトリロの描くパリの裏町の一軒の家の戸口に放心したような痩せ男を佇ませ、ユトリロの絵の持つ孤独感に良くマッチさせていた。又ロートレックのムーランを描いた女性会員は男女の輪を中心に、美しくも倦怠感漂う女性を加えて原作の持つ雰囲気に同調させた。私は会員になって先生の合評を聞いたが、この二点が、原作の主張する情感をよく感知して、構図・色調を損なわず人物を融合させたと評価した。

彼は自信を得たかのように、私に風景を模写しているうちに、単に模写の巧みさではなく何を主張しようとしているのか朧げながら判ったような気がして、今後の制作に自信を得たようだと画友は語った。私も観念的にはそれが理解できるので、彼に遅れを取らぬよう私は迷っていても仕方ないので始める決心をした。さてどんな絵を模写したらよいかと思うと簡単ではない。画友は理屈張らないで、とも角やって見ることだ、よい知らせがあることを期待していると親しいプレッシャーに私は悩んでいる昨今なのである。

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