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リレー随筆 第20回  

OB美術会との出会いから - 宮本 裕子 -

「明日何が起こるか分かりませんよ」と言うコマーシャルを聞いたことがあります。私には関係ないと思っていましたが、その日は突然やってきました。1999年1月、夫と二人で行ったリゾート地・モルジブで航空機事故にあい、機体ごと海の中に墜落し私と他2名を残し全員死亡しました。宮本雄治は 一瞬にして亡くなりました。
悲しくて辛くて、現事実を受け入れる事の出来ない日々を送っていました。一人でいる時なつかしい音楽を聞いては泣き、風景を見ては思い出し深いため息をついていました。

不思議なことに絵を描いている時は 悲しみを忘れる事が出来ました。
ふとしたことから日立OB美術会の存在を知り 自分の描いた蘭の絵を2枚持って見学に行きました。
会では 一人ずつ自分の絵を見せて 先生とみんなで講評と言う形式をとっており、私の番が回ってきました。勇気を出して二枚の絵をみんなの前に置いた時、福原会長が 私の日立での所属を聞きました。「私ではなく夫が日立の国際で 夫は亡くなりました」と言うと、よく聞こえなかったのか 再び同じ質問をされました。「夫は死んでしまって・・・」と言うと 急に涙があふれて 声になりませんでした。山本会長が もういいからと 助け船を出してくれたのを覚えています。

あれから毎回出品しています。中学高校と美術部で よい先生との出会いがありました。シンガポールでは 日立化成の福田さんに会い奥様と二人で古い街並みをスケッチしていました。1996年、二度目のシンガポール駐在では、喜多さんと同じ時期だったため、お互いの絵を見せ合って感想を言い、よい刺激をうけていました。そのころ現地の友人を通して 慈善団体から展覧会の依頼がありました。1997年グッドウッドパークホテルでチャリテイー個展をさせてもらったことは 私の絵画生活の展開に大きな力となっています。絵の好きな無名の主婦が 急に「芸術家」としてデビューしてしまいました。現地の新聞には “Japanese artist back to help the disabled” とあり、強い正義の味方が 日本から飛んできたような見出しに冷や汗をかきました。

事故後、有り余る時間を 本格的な絵の勉強に向けたいと思うようになりました。還暦を前に 武蔵野美術大学に編入し油絵を専攻しました。卒業後 私は、絵を描く難しさと楽しさを交互に味わいながら 心にあるものを絵に表す作業をしています。それを見て何かが伝わったら嬉しいと思いながら 絵を描いています。内面にあるものを色や形にして作品として表現していくと 心の中がどんどん軽くなって また新しい空間が出来ていくような気がします。
するとまた 新空間を埋める風のようにヒントが出てきます。今は この何の前触れもなくやってくる新しい何かに出会いたくて 絵を描き続けているような気がします。

最近の作品5点を掲載致します。(左上からの配置順に題名を示す。)
1 海の絵(ワイト島・英国南)
2 葉の抽象画(春の嵐)
3 男女の絵(序章)
4 果物の絵(ドリアンと水指し)
5 店の絵(アラブストリート)













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