日立OB美術会
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リレー随筆 第5回  

日立OB美術会あれこれ - 江川隣之介 -

日立小石川別館(平成元年8月)
江川隣之介会員の作品

日立OB美術会の最古参者になった今日になって、手元に保管中の古い資料を取り出して見ると、様々な思い出が巡ってくる。

私が加わったのは何回か日立OB展を見学しているうちに、出展を奨められてからであり、その頃は銀座の明治画廊で開催されていた。ただ一度丸の内東京海上ビルのマリンテラスでも見たことがある。最後の明治画廊での開催となった昭和54年(1979)の第6回日立OB美術展に初めて私は出展した。尚橋本真吉副社長は昭和51年(1976)の第3回展から昭和58年(1983)の第10回展まで出展しておられた。

その後になって亀戸に日立の厚生年金会館が完成したが、仕事の関係で私も亀戸には縁がありこの施設には関心をもっていた。第7回日立OB美術展はこの日立厚生年金会館で昭和55年9月(1980-9)に開催され、広いホールに衝立を持ち込んで展示パネル兼仕切り板とし、30名の会員が参加出品した。その中には日立工場の有志も含まれていた。

当時の世話人は日立家電宣伝部所属の伊藤洋氏でこの展覧会は昭和55年度日立OB会ニュースNo1(同年7月10日発行)及び同No2(9月5日発行)によって紹介されている。その頃はワープロもなく、年に2,3度発行されるニュースは総て手書きであった。

第8回日立OB美術展は昭和56年9月(1981-9)に明治画廊で開催され、高尾静子元副社長夫人も出品された。来場者は204名で詳細な名簿が関係者に配布されている。高尾夫人は第14回展(昭和61年)までご協力頂いている。

第9回日立OB美術展は昭和57年10月5日(1982-10)より有楽橋画廊で開催され、出品者は40名でその中には駒井健一郎社長も加わっておられた。来場者は457名で、駒井さんは第13回展(昭和61年)(1980)までと、最後に平成2年(1990)の第18回展に出品された。

また昭和57年秋(1982)には日立OB美術会会則が作られ、日立社内の各事業所のほか関係会社の総務関係部門宛てに630部が配布された。当時は会員の範囲を日立製作所に限定していたが、平成10年10月(1998-10)以降日立関連会社を含めることに改められた。

第10回日立OB美術展は昭和58年10月(1983-10)に新たに完成した日本ビルの日立製作所新事務所内で開催され、全社の予算審議会はじめ講演会など特殊な目的に利用される映写室と呼ばれていた広い事務室に、展示パネルを兼ねた衝立を立て展示を行った。出品者は44名でこの会で初めて出品目録が作られた。

この美術展に先立って昭和58年5月には茨城県出島村で泊りがけのスケッチ会が催されたが、参加者は世話人代表である福原三郎氏(当時は会長とは言わなかった)とスケッチ会を企画した高橋淳之助氏ほか2名に私を入れて5名に留まった。

前後するが、福原三郎氏は日立OB美術会の主導者で日立工場時代から絵画のグループを提唱、指導してきた熱心な人で、日立OB美術会ニュースを通じて会の運営、作画の手引、画材の解説、絵画に関する読書紹介をし、合評、懇談会を提案して来られた。特に日立OB会ニュース昭和62年(1987)No2,3,4,5,6にその面目が偲ばれる。

昭和59年8月(1984-8)には虎の門の松井ビル内の日立家電事務所に作品を持ち寄り、会員相互による合評会が始めて開催された。合評会はその後になっては日立鎌倉橋別館や日本ビルに会場を移して継続された。

平成2年以降日立OB展は春秋2度の開催となったが、日立製作所の事務室スペースに余裕が無くなった為、平成2年10月(1990-10)開催の第18回展を最後として日本ビルの会場の使用は認められなくなった。その後は京橋の東京近代美術クラブ、鹿友アートサロンに継いで現在のギャラリーくぼたへと会場を移すに到った。

尚平成2年4月から川崎に新築された日立製作所情報システム工場の事務所の備品として会員の作品を1年から2年間のサイクルで貸与する制度が新設され、職場の環境改善に会員の風景画が活用された。この制度は後にサン商事(株)の業務として継続され、暫くの間他の事業所にも拡がった。

余談であるが、嘗て日立小石川別館と称して旧細川邸の木造建造物が日立製作所社員の福利施設として愛用されていたが、これが取り壊される直前になって、日立OB美術会有志が集い、建物の最後の姿を留める為、夏の昼下りに藪蚊に食われつつ満開の百日紅の赤い花を添えて建物の全景を油絵にした。八百善の板前であったこの施設の管理人の女将がこの様子を見兼ねて、応接室に案内してお茶を振舞ってくれた。昭和20年5月の東京最後の空襲の際にこの近くで焼け出された私は、父とともにこの建物に避難した記憶がある。ここは小平浪平創業社長の終焉の地でもある。この時に制作した絵画は日立製作所の総務部に寄贈した。

(平成20年2月)

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