「絵画と俳句」 - 黒岩 裕介 -
■日本海から吹きつける浜風,周りには何もない。初めて見る光景に言い知れぬ感動を覚える。そこでスケッチブックを開くか句帳を取り出すか私は迷う。「絵」と「俳句」をやっていると結構両方とも面白い。で、その二つを並べて勝手な寸想を少し。
■ミロのビーナスの欠けている左手はりんごを差し出し、右手は衣服に添えていた。しかしそれらは復元されなかった。それだけで十分美しいし、無いからいろいろな思いが広がるのである。俳句は十七音で時空の無限の広がりを詠むことが出来る。季語と切れと省略によってそれはもたらされる。絵の描き過ぎ、俳句の言い過ぎはともに説明となり詩情を生まない。常々これだけは避けたいと思っている。
■与謝蕪村は絵描きであり俳人であった。だからであろうか、絵の見える俳句がある。「五月雨や大河を前に家二軒」この句からすぐにスケッチが描けそうである。一方芭蕉の句「五月雨をあつめて早し最上川」は同様な句であるが、スケッチにしにくいし、描いても余り良い絵になりそうもない。かの正岡子規が『臥仰慢録』で両句を比較して、芭蕉の句の「あつめて」は『たくみ』があって面白くない。それに比べると蕪村の句は『遥かに進歩して居る』といっているのが面白い。俳句は見たものを詠めと「写生」を推奨し近代俳句の革新に取り組んだ子規の真骨頂がうかがわれる。そういう子規も絵を描いた。蕪村の俳句は褒めたが、絵は蕪村の南画ではなく西洋画家中村不折の「写生画」を学んだ。このことが俳句へ影響を及ぼしたといわれる。絵も俳句もまずは「写生」なのである。そこから何かが生まれる。
■絵も俳句も感動を人に伝えるもの。その方法が違うだけだと思っている。「景が良く見える」句に句会で得点がよく入る。これは、作者の感動がよく読み手に伝わっているということである。そのために最も的確な言葉を選び、情景を一気に醸し出す季語をさがし、切れや十七音のリズムを確かめるなどの推敲を重ねる。これは絵画と同じである。構成から色彩からマチエールから意図を伝え得る最上の表現を目指す。従って絵を描いている時は俳句のことは忘れているし、俳句を苦吟している時に絵画など考えない。頭の中では全く別のものだから。
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7月にNHK衛生放送のテレビ句会「俳句王国」に出演した。私の拙い兼題句「蜚蠊」と自由題句は次の通りである。
蜚蠊の目の億年の光かな *蜚蠊:「ごきぶり」
病院の午後は休診熱帯魚
多くの句友が二句とも作者が私とすぐ分かったという。絵画的だというのである。さあどうだろう。皆さんはどう思われますか。
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