私はこうして絵を始めた - 大藤啓子
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暖かな橙色の明かり、その窓だけが暗闇の眠りの中で私を励ます。スポーツに明け暮れ試験は眞近に徹夜で乗り切る。そんな中学生時代、家の斜め向かいに主体美術の中野淳先生が住んでおられ、夜中に制作されていた。小学生の時に手解きを受け、時々モデルにも。二年生の時、東京都主催の「東京の現在と未来を描く」コンクールで賞を頂いた。近くの女子美の生徒は誰も入らなかった。
すっかり気を良くし、賞状を机の前に飾り、いつも見てはほくそ笑んでいた。美術学校への進学は許されずミッションスクールに。
結婚し、3人の息子に恵まれた。転勤と社宅生活が続いた。家事・育児の合間に何かをするには自ずと制限が、音を出さない、強い匂いもダメ。好きな日本画を始めた。高崎時代は日府会の高橋辰郎先生に、清水時代は日本美術院の土橋妙子先生に、そして県展の審査にいらした憧れの憧れの日本美術院同人の森田曠平先生に師事することが出来た。
子供達が学校に行っている間に新幹線で新横浜に行きご指導を受ける。家事を終え翌朝まで制作、主人、子供達を会社、学校に送り出し眠る。そんな生き生きした日々を送った。
主人が他界した後、子供達と絵が生きる力となった。
日立OB美術会に入れて頂き、大勢の優しい方々の中で過ごさせて頂く幸せを感じております。
★花車:スケッチブックの中から四季の花々を気高く咲かせてみました。大きな絵なんですよ!
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