私と絵画 - 萩原 茂
-
会社を止めたとき、これからの長い時間を、どうやって暮らせば良いか、色々考えた挙句、恐る恐る絵でも描きながら老後の時間を埋めてみようかと考えた。うまくはないが、絵を描くことは好きで、昔から教室でノートに字を書かないで、先生の似顔ばかりを画いていた。所謂ポンチ絵の類である。
しかし絵を画き始め、教室に通ったり、いくつかのサークルに入ってキャンパスを汚しているうちに、段々興味が湧いてきて、いつの間にかすっかりこの世界にのめり込んでしまい、結構忙しく、充実した日々を楽しく過ごしている。
会社にいた頃の、あの乾ききった建前だけが大手を振っていた縦型裃社会とは大分異なり、この世界には、心で泣いても顔は笑っているというような技は全く必要ない。互いの感性をぶつけて、本音で語り合える清々しさと明るさが溢れており、その中での暮らしの快適さは又一入である。
ところで、絵を描こうと勧めても、絵は上手く画けないといって逡巡する人が可成りいる。しかしこの世界では絵のうまい、まずいはあまり問題ではないから、全く逡巡せず積極的に参加されたら良い。なまじ自分は上手いと思っている人ほど、実際の形と色に拘りすぎて、自分の主張なり意志が,実景の陰に隠れてしまうことがあるという。逆に自分はうまくかけないと思っている人は、形や色よりも感情をむき出しにして、キャンバスに向かってくるので、観る人につよい印象と感動を与えることがあると言うのである。
絵は「もの」を克明に見ることから始まるが、克明に観て丁寧に書くということは、何もそこにある全てのものを細蜜に描くことではない。そこには、必要な省略や強調、また存在感のある単純化もあってはじめて作品は出来上がるという。そして、それを決めるのは個人の持つ感性で、単なる上手さだけではない。
「やっぱりそうなのか。絵は上手くないものの方が、味のある傑作ができるのか。それでは私も満更悲観しなくても良さそうだ・・・・。」
これは私だけの独り言である。
|