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私はこうして絵を始めた - 富永 哲夫
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何回かの節目があって、本格的に絵を始めることになったのですが、小学校(正確には国民学校)の低学年の時は、絵を描くのが大嫌いでした。絵は図画特別教室でやっていましたが、先生から、学校から帰って遊んでいる様子を描いて来るようにという宿題がよく出ました。自分を見ないで自分を描くなんて、一体どうしたらいいのか、全く分かりませんでした。それで描いて行きませんでしたので、しょっちゅう先生に叱られました。そのうち、空襲で校舎が全焼しましたが、戦後になって校舎の一部が使えるようになりました。図画特別教室はなくなり、絵は外で描くようになりました。もう高学年ですから、画材もクレヨンでなく水彩絵の具に変わりました。描くべきもの(東京大学の建物や不忍池など)が目の前にあり、水彩絵の具ですからクレヨンのようにテカテカ光ることもないので、快適でした。これが第一の節目です。
こうして、中学になってからは、絵を描くのに抵抗がなくなってきました。それほど遠くでもないので、全く濫読するのと同じような気分で、東京・上野公園の東京都美術館によく行きました。展覧会初日には鼻をつくテレピンの匂いがまだ残っていて、その匂いの所為もあってか、油絵は鮮烈な感じがしました。日本画、水墨画からも感銘を受けました。気持ちが落ち着くような気がしたからです。高校生になってからは、やはり上野公園にある東京国立博物館にもよく行ったものです。特に印象に残っているのはその表慶館でやっていたルオー展です。ルオーを日本に紹介した東京芸大の大澤先生が講師で来られていたご縁で、先生の解説を拝聴しながら鑑賞することが出来ました。何度も塗り重ねた分厚い黒のバックの作品には身震いするような思いでした。この作品は王様の顔を描いたものですが“Le vieux roi(老いた王様)”ではありません。ルオーのいつの時代の作品か、残念ながら、聞き洩らしましたが、このようにして、絵の関心は深められていきましたので、この時期が第二回の節目だと思います。
高校時代には美術部に入っていた訳でもありませんが、三年の終わり頃に五、六人で集まってコンテやパステルを使って絵を描いてみようじゃないかということになって、それぞれ、自己流で描いたものです。自発的に絵を描いたという意味で、これが第三の節目ということになります。
大学に入ってそれから勤めるようになってからは絵を描いている余裕がなくなりました。とは言っても、定年になったら、それこそ、本気に絵を描いてみようと考えていました。それで、隣の人が絵をやっているので、どんな様子か聞いてみたところ、「いま丁度うちの会で油絵の初心者講習会をやるところなので、顔だけでも出してみたら」と熱心に誘われ、定年前ではありましたが、その講習会に出席することにしました。言ってみれば、これが第四番目の節目でしょう。その後、所属している会も移り油絵からパステル画一本になりましたが、ずっと絵を続けて来られたのは嘗ての美術館・博物館通いが少しは役に立ったのかも知れません。
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