日立美術会
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美術サロン

  

私はこうして絵を始めた
「私と絵画」     - 江川隣之介
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サンモリッツのヨットハーバー

絵画への関心は学生時代から持っていて、その頃も度々上野の美術館に足を運んだものだ。私の住居の向い側に関西の画材店「ホルベイン」の東京支店長の自宅があり、娘同志が小学校の同級生であった縁もあって、昭和38年頃から油絵に親しむ様になった。

その後近くにある新宿の厚生年金会館で絵画教室が開講されているのを知り、難波田龍起氏の絵画教室のレッスンに通う様になった。

昭和46年の春になって、次女が進学した桐朋学園の父兄のための絵画教室「桐朋チャーチル会」の存在を知り、毎週土曜日午後には京王線仙川の桐朋学園に足を運ぶようになった。

その講座の講師の梶田英一先生は光風会に所属しておられた大変几帳面な方で、油絵の具についても絵の具の種類やメーカーを細かく指定して、何色は何社製を使用すること、絵の具をパレットに配置する順序も指定する程の丁寧さであった。絵の具のメーカーはマツダ、文房堂、日下部の各社に限られており、筆もメーカーを指定された。パレットナイフを使って遠近感を出す手法を「空気遠近法」と称して教授して下さったりした。また屋外での写生の際に使用するパイプ椅子やパイプと一体化したリュックを紹介して下さり、冬期の寒冷時に着用する防寒着等も推奨して頂けた。

時期を選んでは写生会を催して、早春には小田原近辺の梅林に出かけ、春酣ともなると長野県の森に杏の花を求めてイーゼルを立て、初夏には明治神宮南池の睡蓮を、秋期には東大構内や神宮外苑の銀杏並木を描き、上高地や大正池の秋をキャンバスにとどめ、冬の妙高高原の雪景色に絵筆を運ぶ機会を設けて頂いたりした。

先生は夏の季節にはパリの下宿に滞在して、制作に励まれるのがその頃の習慣でもあった。 昭和50年代の初めに私はドイツのハノーバーメッセを視察する機会があり、その際にパリで先生と落ち合って、ルーブル美術館やモネの睡蓮の絵のあるオランジュリー美術館などを案内して頂いた。

桐朋チャーチル会はその後も継続しており、講師は春陽会の婦人画家に替わり、人体クロッキー、テンペラ画、版画とのコラージュ、美術館見学なども教材に加わった。写生会も東京港野鳥公園、横浜港、御岳、多摩、北茨城の五浦海岸方面にも及んだ。

この間有楽町の東京交通会館や京橋の画廊で桐朋チャーチル会のグループ展も度々開催された。
展覧会といえば上野の森美術館の「日本の自然を描く会」に参加したこともあり、旧制第六高等学校の絵画グループによる15回に及ぶ「六彩会展」や、旧制高等学校35校の卒業生による10回にわたる美術作品展「白線展」にも出品した。最後に記した二つの会は既に解散している。

日立関係としては昭和52年初めから55年初めにかけて、日立照明絵画部展に継続して出品してきた。
日立OB美術展には「日立亀戸年金会館」で開催された昭和55年秋の第7回展以降継続して出品しており、展覧会場も「明治画郎」、「有楽橋画廊」を経て、「日本ビル映写室」から京橋の「鹿友アートサロン」、「近代美術クラブ」、続いて只今の「くぼた画廊」に移ったが、嘗てはこの会には駒井建一郎社長や高尾直三郎副社長の静代夫人も出品しておられた。

なお昭和63年12月から平成元年6月にかけては「NTT神田営業所」に於いて三回にわたり日立OB美術展・特別展が開催されており、これにも出品している。
昭和63年から毎年2週間のヨーロッパ・スケッチ旅行会に参加し、平成21年まで二十数年間にわたり、北欧・イギリス・アイルランド始め西欧の諸国やシチリア、ポーランドなどの各地を訪問し、絵筆を楽しんできた。

その際初期には6号のキャンパスを手作りの段ボールケースに収納して利用した。後になって自家特製の6号キャンパス・ボードと携帯用の木製ケースを開発し活用した。このケースはその頃「東急ハンズ」に新商品アイデイアとして提案したところ、評価されたものの、その企業として「一般商品に取り上げるには専門的」として、採用は見送られ、記念品として特殊な定規を贈られた。

最近は現地では水彩画を描き、帰宅後に油絵を制作する様に簡素化を図っている。
日立OB美術会は企業内のこの種の団体としては最大で最活発なグループであり、今後とも諸兄ともども絵を楽しみたいものと思っている。

 

 

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