私はこうして絵を始めた - 板垣慶子 -
私と絵との出会いは 父の海外赴任先のマダガスカルから始まる。 シーラカンスやアイアイ、ぞうがめ等で有名なアフリカ大陸の隣りの島だ。 幼稚園の年中から年長までと小学校の低学年までを マダガスカルのフランス人学校で過ごした。 赤い土と山に坂、広い空、草原、雑木林。真っ白い二階建ての一軒家のベランダには ゴムの木。庭にはカメレオン。フェンスには ブーゲンビリア。雪は降らず、明るい日差しと時々起こる嵐のような雨と風。そんな世界で のびのび過ごした。 フランス同様、マダガスカルの幼稚園でも 絵はことに重要視されていて、絵の具などで 模造紙いっぱいに絵を描かせてくれるのだが、とにかくほめてくれる。掲示板にも バンバン貼ってくれる。 「YOSHIKO、うまい!うまい!」こうして 散々ほめちぎられて のせられた私は その後もずっと 絵を描くのが大好きな子供となった。その当時の私の将来の夢は画家だった。 帰国後は 東京の小学校を2つ転校。 図工の先生に選ばれ カリフラワー等の静物を描いた作品を 他の小学校との合同の展示場で 飾ってもらった。運動会の表紙に私の絵が採用されたこともあった。懐かしい。 小6の2学期から中学卒業まで 親の海外転勤でフランス パリに滞在。パリ日本人学校の図工の授業はパリというお国柄、油絵だった。その頃から私は 油絵の具のにおいが たまらなく好きだ。その頃の私の絵を先生は 「野獣派のマルケのようだ。」と評した。本物のマルケには さすがに かなわないが、鮮やかな黄色の原色を利かせた木々とセーヌ川の川岸の風景画。のっぺりとした風景だが、結構気に入っていた。 けれども、パリではロココの先駆けとなったジャン=アントワーヌ=ヴァトーの描く きらびやかなのに 物憂げで切ない 夕暮れ時の風景の数々に魅きつけられた。私のオレンジや黄色等の原色中心の画風とは全く異なるが、 いつか こんな雰囲気の絵が描き出せたらいいと思っている。 高校時代は 美術部に在籍。私は1枚の絵の中に 自分の思い全てを 封じ込めたいタイプなので 特別な感情が沸き起こった時の作品など 今でも絵を見た瞬間にその当時の状況が思い起こされる。 東京の大学卒業後 貿易の商社に約6年在職。入社2年めくらいで 新宿の朝日カルチャーセンターで2年間 国画会の先生に初めて本格的な 油絵とデッサンの手ほどきをうけた。 同じ頃、上野の東京都美術館で開催していた 新洋画会という団体を知り、同じ年の秋から 久しぶりに公共の場で 自分の作品を展示することができた。 退職後、紆余曲折を経て 日立化成の契約社員として 1年間勤務することになった。これが 私の人生の一大転機となった。 ここに入社したのが 縁で 今の夫と巡り合えたし、 当時日立から出向で来ていたH部長の代わりに この展覧会を見に行き、入会を勧められたのだ。 現在退職し、子育てをしながらだが 可能な限り出品している。絵は私のライフワークだ。
「マダガスカルの風景(ラナリソワさん)」 幼稚園時代の私の絵は大きな模造紙で撮影しにくかったので諦め、当時の現地の様子が浮かびやすいようにということで、パリで学んだ現地人の画家ラナリソワさんの「マダガスカルの現地の絵」を選びました。
「ノートルダム寺院(慶子)」 パリの中学校時代の作品:マルケ風「ノートルダム寺院」です。