斎藤三郎の水彩画 - 横田一郎 - もう15年以上前のことになるが、八重洲ブックセンターで斎藤三郎画伯の水彩画集が目に付いた。大判の立派な豪華本二巻で、ヨーロッパ、亜細亜の各国を旅行して描いた風景、風俗、人物画等それぞれ100点あまりの水彩画が収録されていた。 斎藤三郎は正規の画学校の出身ではなく、エンジニアを目指して東京の物理学校(現東京理科大学)に在学していた。早くから絵の才能にすぐれ画家を志して本郷絵画研究所に入ったが、わずか三日でやめてしまった。美術評論家野村木明氏は、斎藤三郎は「絵は教わるものでなく独りで学ぶものと悟ったが、もう一方に絵は大地と自然から生まれるものという認識があったからだ」と書いている。
第二次大戦で物理学校在学中に召集を受け満州、中国、仏印、マレー半島、スマトラ等に転戦し最後に再び満州で召集解除となったがその間に三千枚にわたるスケッチを描いている。この間に画家になる決心をしたといっているように、この戦場におけるスケッチで示された天性の素描才能が画家への自信を深め、後の斎藤画風を確立させた。
戦後二科会に所属し東郷青児、や藤田嗣治との親交の中でその画風は洗練されたものとなったが、その天性の素描の才能と現地で民族の内面までを捉える彼独特の画風を確立していった。
この水彩画集は多くの風景、人物、風俗が描かれているが水彩画を単なる油彩のための下書きではなく、それ自体が完成されたものとなっている。中には道端や石垣の間に咲いている花を摘んで花束としこれを美しい絵とし見るものを楽しませている。
この画集を買って見ているうちに絵を描いてみたくなり水彩用具を買って、一枚ずつ丹念に模写をやった。これが契機となり、やがて自分自身の絵を描こうと思い立ち、仕事も暇となったので水彩教室にはいり、また油彩教室にも通い絵を描くようになった。
写真は私が初期のころかいた斎藤三郎のイタリアで描いた「アッシジの野の花」の模写である。これが私の絵画の原点といえよう。
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