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リレー随筆 第14回  

筆を生かす  - 山下悦三 -

巨匠中川一政画伯は午前の日課になっている薔薇の習作に筆を走らせたその日の午後、生きるが如く芸術に捧げた生涯を閉じられた。98歳間際の平成3年2月15日のことであった。

画伯は常に絵画は美術だからといって美しいなどとは問題ではない。絵が死んでいるか生きているかが問題であるとの名言を残されている。日頃安易な気持ちで絵筆を遊びとしている私がその言葉を初めて知った時、強い衝撃を受けたが、これを容易なテーマではないと思った。

OB展に来場する学芸員の友人は、私が立見先生に”絵になっていますね“と云われて満足げな私に「見られる絵だが、これでいいと思っているようで、絵が眠りかけている」と絵が死んでいるとは云わないが、この老骨が惰眠を続けぬようにと手厳しい。絵はこれでいいと思ったら終わりですよと告げ去る。

その通りと彼の批評を受け入れるが、時には突然私の作品を見るなり「何を描いている?」と云うから「見れば判るでしょう」と私は苛立つ。「そうじゃないのだ、絵は写実性は確かだが、君がこの風景画から何を言いたいのか、恐らく春待つ山里の歓びを描こうと思っているなら、目の前の現実にとらわれず君自体の詩情の舞台造りを描こうと努めれば、観る方の共感も得られると思うよ」と自己満足の絵がらの脱皮を促してくれる。

これ又中々重い課題だが、さらに私のガラス絵師匠故桜田画伯は日本の詩情を独特な色調で表現された巨匠らしく、その教室スケッチ会の作品には俳句を添えなくてはならない。大体絵が先で俳句は後付けだから酷評を受けるのが常である。画伯は「スケッチする前に俳句を考えるというのは只眼の前のものを写実するよりは、風物に描く者の詩情(テーマ)が先導すればそれが絵として見られるのだしと教わるが情感不足の私などは、師の言葉を大切にはするが、何とも重い課題である。

そこで私は時々思い立って、伊豆の入り口真鶴半島にある中川一政記念館に、その生きた絵を拝観し迷う心や筆を自ら激励することにしている。巨匠の生きた絵を表現することは困難である。観るに如ずだが巨匠の筆はモチーフに体当たりするような奔放な筆致で重厚な色調で熱いエネルギーを発散させている。

私は感動して止まぬが、その壮大なる筆とは裏腹に、小さなガラス板の向こう側の女たちに魅惑の眼差しを与えるため熱を上げている。息づく女に共感を得て頂くために。

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