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リレー随筆 第15回  

熊谷守一美術館を訪ねて  - 喜田祐三 -

先日、ふらりと「熊谷守一美術館」を訪ねた。東京メトロ有楽町線「要町駅」から徒歩8分の距離だが豊島区千早2丁目の一帯は裏通りに入ると昔ながらの路地が迷路のようであり、とても分かりにくい。
熊谷守一は1880年に岐阜で生まれ、昭和52年に97歳で亡くなるまで、特に最後の30年は豊島区千早の自宅から一歩も外に出ず、30坪の自宅の庭が彼にとってすべての世界になった。この小さな世界の中で彼は独自の境地を拓いた。 1967年に文化勲章を授与されることになったが「自分はお国のために何もしたことがない」と辞退したことは有名な話である。 東京美術学校時代は黒田清輝から、彼のアカデミックな技術が高く評価された時代もあったが、写実から出発して1930年代には熊谷独自の世界を確立した。 「対象を極端なまでに単純化」して「輪郭線と平面的な画面で構成」した「抽象度の高い具象スタイル」を拓いたのである。 1916年に二紀会の会員になったが、熊谷守一は優れた絵描きになろうとか、お金がほしいとか、名誉や物にたいする欲求が全くない画家であった。1945年に長女の「萬」を肺結核でなくして以降、彼は外部との接触を断ち自分の庭が彼のすべての世界になった。庭に咲く小さな草花や庭に棲む昆虫や小動物など身近な命を見つめて生きた。 随筆集「下手も絵のうち」の中で彼はいろいろな名言を残している。これらは熊谷守一の絵描きとしての人となりをよくあらわしていると思う。

(1)「下手と言えばね、上手は先が見えてしまいますね、行き先もちゃんと分かっていますね、下手は先がどうなるのか見えない。このスケールの大きさがいいのですね、下手は上手よりスケールが大きい」

(2)「学校の先生がしょっちゅう偉くなれ、偉くなれと言っていました。私は人を押しのけて前に出るのが大嫌いでした。皆が偉くなったら、一体どうするのだと子供心に思ったものです」

(3)「川には川に合った生き物が住む、上流には上流の、下流には下流の生き物がいる。自分の分際を忘れるより、自分の分際をわきまえて生きた方が世の中に良いと私は思うのです」

(4)「絵なんてものはやっているときは結構、難しいが出来上がったものは大概アホらしい、どんな価値があるのかと思います。しかし、人はその価値を信じようとする、あんなものを信じなければならぬとは、人間は可哀そうなものです」

(5)「私は名誉や金はおろか「是非、素晴らしい芸術を描こう」などという気持ちもないのだから、本当に不心得なのです」

(6)「二科の研究生の書生さんに「どうしたらいい絵が描けるか」と聞かれて私は「自分を生かす自然な絵を描きなさい」と答えました。「下品な人は下品な絵を描きなさい、下手な人は下手な絵を描きなさい」とそう言っていました。結局、絵は自分を出して自分を生かすしかありません」

熊谷守一の作品(油)「アザミ」
熊谷守一の作品(油)「アザミ」

熊谷守一に大作はなく、ほとんどの作品が4号ほどの小作品である。しかし、作品の大きさと反比例して熊谷守一の世界はとても大きい。彼は小宇宙を線と面で区切って色を平塗りする技術であり抽象画のようだが、あくまで具象を突き詰めていった極限の色と形の世界なのである。


熊谷守一美術館
http://www.kumagai-morikazu.jp/





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