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展覧会

リレー随筆 第24回  

浅草を描く -粟根 洋-

浅草松屋の画廊で2000年から開催してきた「母なる隅田川を描く展」は2010年のデパート廃業で中断を余儀なくされたが、その後浅草中央通りの和風画廊ブレーメンハウスで「浅草界隈スケッチ展」を始めて3年になる。始めた理由はナイル川やセーヌ川が街造りに影響力を与えたということで、母なる隅田川が育んだ浅草の町を描くことになった。  

ウエブサイトを持つ隅田川万華鏡会は作品掲載を始めて6年になる。現在の作品数は隅田川作品が150点と浅草作品が150点で、隅田川では人間・自然・構築物・歴史・環境、浅草界隈の町では信仰、交通、食(商い)、芸能等の文化ジャンルに分かれている。隅田川の影響力を受け、発展してきた浅草の姿が作品群の中に窺え、その歴史を追ってみる。

信仰文化: 推古天皇時代(628年)に漁夫が網にかかった仏像を持ち帰り供養したことからスタートした寺町は家康の加護を受け、奥州街道・隅田川流域から来る浅草寺参詣者で栄えた。当時の寺町浅草は寺院が7割の土地を占め、江戸からは浅草橋、大川からは駒形堂(コマンドウ)が参道の入口だった。

交通文化: 当初、隅田川や運河が浅草寺詣での信者や食材の主要経路であった。明治以降は地下鉄・東武鉄道・市電・バス・つくばエクスプレスが主要交通。大橋(吾妻橋)・両国橋・永代橋が初代の橋で「渡し舟」も20か所位使われていた。最近は水上バスや観光バスや東京スカイツリー鉄道が浅草繁栄の基盤である。

食(商い)文化:江戸時代以降平和が続き、交通網を生かした産地直送の食べ物屋が大きく発展した。交通網整備(鉄道・バス・市電・人力車・観光バス・水上バス等)と本物志向の老舗と参詣者の増加が町の繁栄に繋がっている。

芸能文化:江戸時代以来、庶民の楽しみが求められ、上野の輸入芸術も浅草ロックで芸能文化に育った。記録に挑戦するスポーツや音楽・絵画活動も市場参入の試みが始まっている。神輿の三社祭・レガッタ・花火など毎月の祭り事が芸能文化の水準を上げている。 浅草文化は長期的にはこれらの文化を相互に補い合いながら成長してきたように考える。  

ところでこの百年の東京を振り返えると浅草界隈は戦災や自然災害はあったものの、それらを乗り越えて浅草界隈と東京観光を組み合わせながら独特の文化を育ててきている。 最近某新聞に「実のある面白い日本文化を作り始めているのは再び東京の右側である」と書かれていた。確かに都心や空港に近く400年の江戸時代以降の歴史を持ち世界一のタワーや水上観光に恵まれた浅草界隈は有利ではあるが本当であろうか?

江戸東京博物館などの資料によると、江戸〜明治時代の絵画のモチーフは舟遊び・景色や橋を眺める・春夏冬の桜・花火・夕涼み・雪・富士山の風物詩である。そして戦後65年、好不況はあったが上野・浅草界隈は本物志向のもの造りの努力を重ね、観光立国基盤を充実させて来ている。このような環境の中で当会は浅草界隈の歴史に焦点を合わせた絵を描いているわけであるが、その技法は十人十色である。浮世絵(ぺん画)に似たペン彩画・淡彩・水彩画か、明治以降隆盛を得た油彩画か、色彩美豊かなアクリル画か、銅版画・木版画・石版画か、歴史ある水墨画か、知的なミックスメディアか、立体画への展開か、あるいは現代陶器か、いずれが現代の浅草に相応しいのか、評価は今始まったばかりである。


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