「フェルメールが好きだ」 - 酒井 康彦 -
フェルメールの絵を始めて見たのはいつだったろう。
定かには思い出せないが、これだけは断言できる。
何かのことでひどく落ち込んでいた時だった。その落ち込み方が異常ではない。
死をも覚悟したほどだった。そんなに昔ではない。そのときに覚えた感覚を今でも鮮明に思い出すことができる。「牛乳を注ぐ女」だった。注がれている牛乳の静かな小さな音まで聞こえてくるような静粛な空間。それは注がれている窓からの、柔らかでしかもしっかりとした光と陰がもたらしたものだ。穏やかでなんと静かな絵だろうと溜息をついた。まいったと思った。この静かな営みが人間の日常なのだと思った。失望して裏切って、裏切られて、はしゃぎまくって、そして落ち込んで、救われたと思った。それ以来、フェルメールに魅せられている。音楽を聞いて泣く人がいるが、絵を見て泣く人はいない。だから音楽こそ芸術だという人がいる。人間の五感の中で、情報を得るのは80%が視覚からと言われている。両方とも正しいと思う。しかしそれらの見方をはるかに超えて、人間の奥深くまで思いを届けさせる何かが絵にはあるのではないか。
絵を描くことは、それを確認する行為のひとつではないのかとも考えている。 人は落ち込んだ時に、光を求める。光を求めながらそれが作り出す暗にも思いをめぐらすことが、人としての巾を広げるのではないか。フェルメールが好きな人は人間としての巾も広い。なんて勝手に納得している。他人にも好かれるのではないか。便りも増える。「増えるメール」・・・・・ん?
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